伊豆山神社とは

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鎮座地

熱海市伊豆山708番地1。
熱海駅の東北約1.5キロ。

本殿は、相模灘の絶景を望む、海抜170メートルほどの地点にあります。
境内は歌枕に名高い伊豆の御山、こごいの森の一部で、本殿を中心に山側、海側へと連なり、約4万坪の広さがあります。本殿から海に向かって参道の階段を下ると下宮の跡地があり、さらに伊豆浜に下ると走り湯があります。また、本殿から山に登ると、海抜390メートルほどの山中に本宮があります。
伊豆の御山は、日金山や岩戸山に連なり、伊豆・相模・駿河の三国にまたがる広大な神域の要です。

 

御祭神

伊豆山神 【火牟須比命(ほむすびのみこと) 天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
        栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと) 邇邇芸命(ににぎのみこと)】

例祭日

4月15日

 

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神徳・由来

 当神社は、かつて伊豆御宮(いずのおんみや)、伊豆大権現(いずだいごんげん)、走湯大権現(そうとうだいごんげん)と称され、略して伊豆山(いずさん)、走湯山(そうとうさん)と呼び親しまれてきた、強運守護、福徳和合、縁結びの神様です。

 祭祀のはじまりは遥か上古に遡り、現存する木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が、応神天皇の御代に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られたと伝える、伊豆大神の御神影をあらわしています。

 その神威の源は、湧き出る霊湯「走り湯」であり、走湯大権現とはこれを神格化した呼び名で、伊豆の国名は湯出づる神である御祭神の神徳に由来します。

 神威を蒙るところは、沖合に浮かぶ初島をはじめとする伊豆の島々、伊豆半島、さらに二所(にしょ)と呼ばれた箱根や、富士山に及びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に「四方の霊験所」の一つとうたわれたように、平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せ、顕密神道を学ぶ名高い道場となりました。また、熊野信仰とも結びつき、全国に末社が祀られています。

 平安時代後期、この伊豆山に修行して富士登拝を重ね、富士上人と呼ばれた末代上人(まつだいしょうにん)は、鳥羽上皇をはじめ貴族と民衆に勧進し、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。伊豆山から富士山につながる修行の道は、平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝が、北条政子とともに当神社に深い信仰を寄せ、伊豆大神の神威により平家を打倒し、鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるにいたる、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞台になります。鎌倉将軍家の参詣で二所詣の聖地となった当神社は、威光を輝かし、格別の尊崇を集め、戦国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍家も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓いを立てるときの起請文には、誓詞証明の社として、当神社の名が必ず連ねられています。

 そうした神徳を讃え、鎌倉幕府三代将軍源実朝が参詣の途に詠じた和歌は『金槐和歌集』に収められています。平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も、参詣して百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月に熱海市が主催する伊豆山歌会に受け継がれています。

 明治政府の神仏分離令により伊豆山神社と改称されてからも、伊豆大神の神威は絶ゆることなく、大正3年1月13日には当時皇太子であられた昭和天皇、昭和55年9月12日には当時皇太孫であられた今上陛下がご参拝になられました。

 昭和3年11月10日、國幣小社に列格される。